ボクシダイ行進曲

雑記気分記

赤裸々by。

過程が目標になってしまう話

 

『過程が目標になっている』なとぼちぼち思うことがあった。

 

こんな経験はないだろうか。

例えば試験勉強。勉強して試験に合格することが最終的な目標なのに、部屋や机周りを片付けることや勉強道具を揃えることが目標となり満足してしまう状況。

例えば読書。年間に100冊本を読むと目標を立てたのに100冊の本を買い揃えることが目標になっている状況。

思い返すと何かしら当てはまるんじゃないかな。

 

以前から、映えた写真を撮ろうとしている人は何かしらの狂気に駆られたように撮ってるなと思ってた。

角度や影や光彩を気にして自分の気が済むまで何度も何度も撮り直す姿勢、対面の友人の話を遮り会話そっちのけで写真を撮る姿勢、少しでも映えそうなモノや場所を見つけたら頑として動かず気に入るまで写真を撮る姿勢。

上記の写真にかける熱意は素晴らしいものだなと確かに思うけど、そこまでやる必要ある?とも思ってしまう。

もう解除してしまったんだけど、以前Twitterで若い写真家?をフォローしてたことがあって、その人は自分の彼女とか街中とか自然風景とか、とにかく色々な写真を投稿してる人だった。

その中で彼女と旅行に行った際の投稿があったので見てみると、ベンチに座り笑顔な彼女、真剣にピアノを弾いている彼女、階段に座り笑っている彼女と、どこに旅行へ行ったのかが全く伝わってこない写真が投稿されてて「お前らどこ行ったんだよ!!」とツッコミを入れてしまったことがある。

人のTwitterを勝手に見ておいてその物言いは頭がおかしいと言われればそれまでだけど、たぶん彼氏さんは写真を撮っている最中に『旅行』から『旅行での彼女』に意識が向いちゃったんじゃないかな。彼女の映えた良い写真を撮りたいがばかりに、どこへ行ったのかがわからない写真が生まれてしまったんじゃないかと思う。

きっと観光地での彼女の写真も撮ったんだろうけど映えた写真ってなった時に、どこにでもありそうな場所で撮った彼女の写真の方が魅力があり映えていると思ったんじゃないかな。もしそうだとしたら皮肉だなと思うよ。

 

過程が目標になってしまうことは決して悪いことではないかと、それに辿りついた時に何かしらは得ることができると思うから。

本来の目標を見失ってしまうこと、これが1番やっちゃダメなことだと思う。

誰もがやらかしてしまいかねないから気をつけないとね。

 

ふと、PDCAサイクルの必要性を感じてしまった。

そんな話。